智慧の光を求めて、あるがままの心へ。
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【読み方】
くう
【概要】
原語のシューニヤは、「…を欠いていること」という意味である。
そのもの自体が認識され得るのは欠いている状態を知覚することと、欠いていない状態を知覚することによって認識できるという意識。
【解説】
「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空(欠如)ではない」(小空経)
講堂に牛がいるときは「牛舎」と呼び、比丘がいるときは「僧堂」と呼ぶ。
そこに全くないそのもの(例えば牛)が欠如しているとき、それについて空と知ることができる。
欠如していない知られるものがあるのなら(例えば比丘)それについて空ではないと知ることができる。
「自我に執着する見解を破り、世間を空として観察せよ」(法句経)
自我=私があるという思い込みに執着する観念を見破って、世間を空(有るのでもなく無いのでもない)と観察しなさい。
くう
【概要】
原語のシューニヤは、「…を欠いていること」という意味である。
そのもの自体が認識され得るのは欠いている状態を知覚することと、欠いていない状態を知覚することによって認識できるという意識。
【解説】
「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空(欠如)ではない」(小空経)
講堂に牛がいるときは「牛舎」と呼び、比丘がいるときは「僧堂」と呼ぶ。
そこに全くないそのもの(例えば牛)が欠如しているとき、それについて空と知ることができる。
欠如していない知られるものがあるのなら(例えば比丘)それについて空ではないと知ることができる。
「自我に執着する見解を破り、世間を空として観察せよ」(法句経)
自我=私があるという思い込みに執着する観念を見破って、世間を空(有るのでもなく無いのでもない)と観察しなさい。
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